2016/01/27

抽象




秩序形成とは何らかの犠牲を払わないと
成立し得ない以上、必ず要求されるものである。



故に、長い年月と膨大な犠牲によって
成り立っている自然派生的な慣習や秩序は
非常に強固な反面、脆い部分が隠されている。



村社会などまさにそうだろう。
あれは農耕に属する個人が犠牲となり
それが累積された場でもある。



なぜ、そういった秩序に従ったか。
多分にそれと上記の秩序形成はリンクする。



個人の作った秩序は本人次第で
いくらでも細かくできるけど、それに比例して
「個人が」対価を支払わなくてはいけない。



それは個人の作業としては非常に
骨が折れるもの、従属する理由はそれで十分だ。



僕は秩序を自然から学んでいるのだが、
それが最大にして最高の手本であるからに他ならない。



昨今の学者が唱えるような目新しさはないけれど、
その基盤の確かさは説明するまでもないだろう。



そりゃそうだ、植物の歴史は人間より古い。






ネットで見る限り、このリゾーム型組織を
提唱しているのは僕の他に数名いるようだが、
彼らが同じことを言っているかどうかは
書かれている文字だけでは判断できない。



無論、組織論である以上、なんらかの
イロハを自然から取り入れているのだろうが
飯の種である以上、容易に知ることはできないだろう。



ただ、それら概念が何らかのフォームをもって
実際の組織の中に入り込んでいるのは間違いない。



基本、他人のやってることなど気にしないが、
やはりここだけは。



☞☞☞



他の組織活性化は思想的なものが大半であるが、
実生活を離れた思想など、ただの空想に過ぎない。



だからと言って生々しい体験だけでも
同じように実態と乖離してしまうだろう。



体験の生々しさは、表現すらできないもの。
よって、そのリアリティに具現性を持たせるために、
創作活動があるわけだ。



それは現実的な抽象作業であって、
本来の抽象に空想は混じりえない。



完全なる理想的な作業は最も正確な
自然を得ることであり、それは余計なものを
削り取っていくことである。



結果、自然の「骨組み」だけが残る。
これが本質だろう。



この骨子まで到達するのが一番難しいのだが、
到達させすれば高尚な知識なども必要なく、
ごくごく平凡な言葉によって表すことができる。



だから本当の至言、名言は一見すると
平凡なものに見えるのだ。




これは「常識」の本来でもある。




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