2016/01/25

和の哲学と個人的な歴史考察




最近発信されている内容を見れば、
多くの人が日本の精神を見直そうという
流れが起こっていますが、



昨今の発信はちと「綺麗すぎる」気がしますね。
さらに言えば、他人を「巻き込もう」とする意図も見えます。



もちろん素晴らしいものが大半なのですが、
解釈とは必ず個人の思想フィルターを通るので、
全体主義的なレトリックのようなものは
一度疑ってかかったほうが良いでしょう。



例えば、この国の歴史は和の精神が
伝統であると言いますが、当然ながら
日本は争いがない社会ではありません。



聖徳太子が「和を以って~」と言いながらも、
実際は戦ばかりやってましたからね。



また、伝統の保守が日本だと言いますが、
この国は常に外国の文化を受け入れ、革新されてますし、



八百万の神と言いながら、天皇を頂点として
崇拝(国家神道)していた時代だってあります。



それを踏まえず単に「調和」だの
「持続性」だのといった言葉だけで語ってしまうと、
志向する「精神」を知ることができない。



汚れた精神性を肯定し、「タブーに触れろ、壊せ」と
破壊するだけを目的とする人間は消えることはありません。



つまりそれもまた、この国の側面ということでしょう。
今日はそんなところから。








(決してひとくくりにはできないけれど)
端的な結論として言えば、この国は
情緒によって志向している。僕はそう思っています。



理論理屈(漢意)というものを
この国は最上の価値にはしなかった。
むしろ「できなかった」のだと思ってます。



それが宣長の説く大和の心(魂)であって、
美的理念である「もののあはれ」。
自然派生に起こる美への志向性です。




そもそも西洋が心だと思っているものは自我。
いわば単純明快な「機能」にすぎません。



そんな自我の基本的動機とは、動物的なもの。
つまり「生存」と「獲得」による、いち戦略です。




縄張り意識しかり、競争派閥しかり、
求愛や養育だって同じところから派生してますし、
ゲゼル・ゲマイン(シャフト)構造もまた、似たようなものでしょう。



そんな基本的な生存パターンが動物と同じで
あるということは、生理的な「本能」ということ。



そこから表層的な感情は左右されますので、
優位性、劣等感、恐れ、支配欲などを
我々の純粋な「こころ」である、と思ってしまうんですが、



そんなわけありません。
そりゃ単なる生存動機じゃないですか。









多分に、自我は恐怖と自己保身を基盤にした
反射神経と定義して差し支えないでしょう。



誰も好き好んで作り出したわけじゃないし、
大事だけれど、人間の本質ではない。
今も昔も変わらない動物の癖、特殊性です。



しかし、西洋は(大半が)そう思わない。
いつでも、生存と獲得を志向するんです。



まさにここにこそ
人工的な国家たる所以があるんじゃないですか。




戦後、その精神がどっと輸入されてきた。
そして、多くが咀嚼せず「歓迎」してしまった。



その思想に対し必死に抵抗したのが、
三島由紀夫ではないかと思ってます。
(そういった意味で三島は保守主義ではない)



なぜなら、我々の精神の型が文化になるから。
つまり彼はこの国の文化が破壊されることを
受け入れることができなかったのでしょう。



しかし大半がそのことに気が付かなかった。



やがて、その思想が教育にまで及んでいき、
徐々に集団の行動パターンとして定着していった。
それがさらに行動様式として強化されたのが、
司法、立法、行政を始めとする「世間(空気)」じゃないですかね。



それを見て「まっとうな人」は嘆き抗い、
似非保守主義は自分のイデオロギーとして「利用し」、



インテリ達は「都合よく解釈」し、
大衆は「魅了された」わけでしょう。



☞☞



そんな世間の通念によって、この国に内在する
精神は実に巧妙に書き替えられたんですが、
震災後、確実に揺り戻しが起こったと感じます。



だから「原発は不可欠、否定しても仕方ない」と
言う人に対し「そんなのまっぴら御免だ」と認めないんです。



確かに、合理的な見解で考えれば
前者が正しいことかもしれないよ、
だけど、「良心」がそれを了解しないじゃないか。



そしてその良心が負の真実や歴史を「直視」し、
歴史的事実として遺そうとしているじゃないか。



だから、理屈なんて通用しないんです。
歴史を見れば、そういった流ればかりでしょう。



そこに動物的自我なんてありませんよ。
そうじゃない人が、隠蔽したり見て見ぬふりしたり
気楽に構えていたりするんです。



自分の生存だけ約束されてれば良いんですからね。
他人の痛みや死んだあとの世界なんて、知ったこっちゃないです。



だから自意識的な発想は常に動物的ですよ。
現状の本能を抑圧することはできません。







ただ、常に個人の生き様を点検し、
自己否定しながら生きろというのも間違ってます。



そんなのやってても疲れるだけです。
僕だって自分の思うようにやってますし、
こうやって好き勝手に書いてます。



だけど間違ってた場合、責任は取ります。
昔はトップが腹切っておしまいだったでしょう。



例えば僕はこうやって書いてますけどね、
実名を出すことで、すべての責任を所有しています。



もし僕が間違ったことを言ってるのであれば
その時点で僕は発信を止めるでしょう。
当然、やってる商売も廃業します



いたってシンプルな決着ですが、
それが責任を取るということです。




そうならないためにも、僕は信じるために
疑うんですが、それが集団的になると責任を取りません。



誰だって生存したいですからね。
言い訳したり、誤魔化したりして回避するんです。



理屈を使えばどんなものだって正しいと
証明できますからね。この間の廃棄食品の転売でも
本人は正当化してるじゃないですか。



小林はこういった無責任性を
非常に恐れていたんですね。



これだって、昔とちっとも変わってませんよ。








「良心」ある人は善いことだけでなく
悪しきこともまた歴史に刻んでいます。



それは理性と感性による想像力です。
真の意味の善悪の区別です。



昔の日本人が自然に対し、畏怖と畏敬の念を
同時に持って生活をしてきたのもそうでしょう。
(当然、空想的な迷信も中にはありましたが)



それはいつだって、幸福へ志向しています。
なぜなら生命を一回性ではなく、
連続性、リレーだと捉えてるから。



ここに自我の生存欲求を超えた精神がある。
自己中心はそのようなものだと、僕は思っています。



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